一から始める株
- ■Infomation
-
株主割当増資
1342年11月にエドワード3世はブレストに到着し、ヴァンヌを包囲したが、1343年1月にローマ教皇の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として、1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。
1344年3月、ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワはカンペールを包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵のうち、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ、叛逆者として処刑された。
1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を計ったが失敗し、まもなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。
ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、外国為替
を獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワはラ・ロシュ・デリアンで戦い、シャルル・ド・ブロワは敗北し、捕虜となった。
こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの元で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。
両派の戦いは、その後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の騎士が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という騎士道物語のような事件も起きており、フロワサールの年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。
1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側のロングボウのFX
を減少させようとしたが、激戦の末、イングランド側が勝利を収めた。
1356年にランカスター伯ヘンリーはブルターニュに入り、レンヌを包囲した。包囲は1357年7月まで続き、ヘンリーは多額の補償金を受け取り包囲を解いた。この時にレンヌ籠城で名を上げたのがブロワ派のブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランである。ゲクランは、この活躍によりシャルル5世に抜擢されている。
1357年にジャン4世が成人しブルターニュ公になったが、同時にポワティエの戦いの後のイングランド、フランス間の和平協定の中でシャルル・ド・ブロワも釈放されたため、再び2人のブルターニュ公が存在することになった。ブルターニュでも和平の話し合いが始まり、一時はブルターニュを分割することで話がまとまりそうだったが、パンティエーヴル女伯ジャンヌは了承せず、1362年に戦いが再開された。
1364年ジャン4世、イングランドのジョン・シャンドスが率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王カルロス2世とのコシュレルの戦いで名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍がオーレの戦いで激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。
フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系のFX
も確認された。
しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリヴィエ・ド・クリソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚したため(秘密同盟であったためこの同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号は、イングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年12月18日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。
しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、1379年4月にはローアン、ボマノワールらの有力家系からの8人の代表、そしてパンティエーヴル女伯らによる抵抗運動が表面化し、1379年8月3日にジャン4世は再びブルターニュに上陸した。フランス側は、1380年9月16日のシャルル5世の死などで混乱しており、1381年に和解が成立し、第2次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。
『ヘンリー五世』(ヘンリーごせい、The Life of Henry the Fifth)は、ウィリアム・シェイクスピアの史劇。1599年作と考えられている。イングランド王ヘンリー五世の生涯を描いたもので、とくに百年戦争のアジャンクールの戦い前後に焦点を当てている。
『リチャード二世』(1595年)、『ヘンリー四世 第1部』(1596年 - 1597年)、『ヘンリー四世 第2部』(1598年)に続く四部作の最終作である。当時の観客にとって主人公ヘンリー五世は、先に『ヘンリー四世』で、手に負えない自制心に欠ける少年・ハル王子として登場していて、馴染みあるキャラクターだった。その若き王子も『ヘンリー五世』では分別ある王に成長し、フランスの征服に乗り出す。
シェイクスピアが『ヘンリー五世』で主に材源としたのは、他の史劇同様、ラファエル・ホリンシェッド(Raphael Holinshed)の『年代記(Chronicles)』(1587年出版の第2版)で、それが劇に「terminus ad quem(目標)」を与えた。エドワード・ホール(Edward Hall)の『ランカスター、ヨーク両名家の統一(The Union of the Two Illustrious Families of Lancaster and York)』(1542年)も参考にしたようで、研究者たちは他にも、サミュエル・ダニエル(Samuel Daniel)の薔薇戦争を題材とした詩にシェイクスピアは通じていたのではと示唆している。
『ファースト・フォリオ』(1623年)から『FX
』の最初のページの複写第5幕冒頭のコロス(説明役)の口上に、ティローン伯の乱鎮圧に失敗した第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーへの言及があることから、『ヘンリー五世』が書かれたのは1599年の初め頃と考えられている[1]。1600年8月14日、書籍商Thomas Pavierによって『The Chronicle History of Henry the fifth』として書籍出版業組合の記録に登録された。最初の四折版(Q1)はその年の暮れ前に、PavierというよりThomas MillingtonおよびJohn Busbyによって出版された(印刷はThomas Creede)。
Q1は短縮版で「悪い四折版(Bad quarto)」と呼ばれている。海賊版か書き留めたテキストであることは間違いない。第二の四折版(Q2)は1602年にPavierにより出版された。さらに1619年にはQ3が、ウィリアム・ジャガード(William Jaggard)の「フォールス・フォリオ」に収められ、1608年の誤った日付で付けられていた。もっとも優れたテキストは1623年の「ファースト・フォリオ」のものである。
1599年春に新しく建てられたグローブ座で初演されたと伝えられる(確認は不可能)[2]。グローブ座は「プロローグ」で「O字形の木造小屋[3](wooden O)」と言及されている。1600年の最初に印刷されたテキストでは、この劇は何度か上演されたと書かれてあるが、確実にわかっている最初の上演は1605年1月7日、宮廷においてだった。
サミュエル・ピープスが1664年に見た『ヘンリー五世』は、シェイクスピアでなく、初代オレリー伯ロジャー・ボイル(Roger Boyle, 1st Earl of Orrery)のものだった。シェイクスピアの『ヘンリー五世』は劇作家アーロン・ヒル(Aaron Hill)の改訂で1723年舞台に戻った[4]。
シェイクスピアの時代に『ヘンリー五世』が人気があったという証拠はない。しかし、現在ではたびたび上演され、その台詞の多くは大衆文化で使われている。とくに人気なのが、第4幕第3場における、ヘンリー五世の「聖クリスピンの祭日(Saint Crispin's Day)」の演説である(後述)。
ブロードウェイ史上最も長い上演は1900年のリチャード・マンスフィールド(Richard Mansfield)主演の54回である。他の特筆すべき公演には、1859年のチャールズ・キーン(Charles Kean)、1872年のチャールズ・アレクサンダー・カルヴァート、1928年のウォルター・ハムデン(Hampden)、そして1937年オールド・ヴィック・シアターのローレンス・オリヴィエなどがある。